【プロレスラー】高山善広の今。私生活は?まさかの完全引退!?

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今回は、プロレスラーとして著名な高山善広さんについて迫っていきましょう!

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プロレス界の帝王、高山善広

プロフィール

リングネーム:高山 善廣(本名も同じ)
ニックネーム:プロレス界の帝王
身長:196cm
体重:125kg
誕生日:1966年9月19日
出身地:東京都墨田区
所属:高山堂
スポーツ歴:ラグビー,ライフセービング
トレーナー:高田延彦,大江慎,ジャイアント馬場
デビュー:1992年6月28日

 

当記事執筆当初で50歳という、その身に纏った貫禄に見合った年齢になっていますね。

それはそうと、ガタイが良すぎる気がするのは筆者だけでしょうか?

なんなんですか、196cmて…

ほぼ2mて、ちょっと日常生活が不便になりそうなレベルですよね(笑)

 

 

人物像

試合に対する分析力と、笑いの要素も含めた会話の能力も優れているため、プロレスリング・ノア中継のレギュラー解説者であり、ワールドプロレスリングなどでもゲスト解説者を務めることがある。
UFCを中継する日テレG+の番組でも解説者を務めたことがある。

1997年3月、全日に初参戦。前年に敗れた川田を追い、オブライトと組み、川田、田上の世界タッグに挑戦。当初は非常に痩せた身体で、キック以外はあまり見所のない選手のように評されていたが、ジャイアント馬場は「こいつは磨けば光る」と目を付けた。
当時の全日本で、初参戦でいきなりタイトルマッチが組まれたのは異例中の異例である。

トップロープをまたいで入場するようになったのは、デビュー当時は普通にロープをくぐってリングインしていたが、新日本プロレス初参戦時にロープの高さがUWFのものよりも低かったため、跨げるのではと思い跨いでみたところ、本当に跨げたためそれ以降の定番になったと本人の著書の中で述べている。

その後、浅子覚、大森隆男とのユニット・NO FEARでの活躍あたりから体重も増え、技術の向上もあってプロレス界で頭角を現すようになる。
1996年から「スー族の血を引くクォーター」と称していたが、これは安生洋二のアイデアによるギミックであり、事実ではない。
異名のアパッチタワーはこのギミックに由来する。

PRIDEに参戦する頃にネタであることが明かされた。

仮面のメイドガイとのタイアップで、メイドのコスプレも行ったことがある。
キャッチコピーは「こんなメイドに萌えてみろ」。
プロレス界の二大巨頭、馬場・猪木が認めるレスラーである。

馬場は当時、他団体の選手である高山に「昔だったら海外に(当時の全日は選手を海外修行に出させていなかったため)参戦させてやりたかった」と色んなアドバイスをしたり、食事に連れてったりと、非常に可愛いがっていた。
猪木も、新日本の会長をしていた当時、「プロレス界で一番もっともらしいプロレスラー」と評しており、気に入った者しか連れて行かない「イノキアイランド」にも招待している。

団体の枠を越えた活躍ぶりから、週刊ゴングの金澤克彦に「プロレス界の帝王」と称され、以降キャッチフレーズとなる。

満足のいく試合が出来なかった日など、ファンに冷たい一面を持ち合わせているが、普段は公式ホームページ等でファンとの交流を図っている。
怖いものは「歯医者」「注射」とのこと。歯医者に行くとずっと呻いているという[14]。

趣味は、玩具・フィギュアなどの収集で、「大学を卒業して田宮模型に入社していたら今の自分はなかっただろう」と語るほどのプラモデル好き。
そのコレクションは、公式サイトにて公開されている。田宮最初のラジコンカーをYahoo!オークションで、「妻に言えないような値段で」競り落とした。

複数のドラマ、バラエティー番組に出演している。2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」に蜂須賀小六役で出演していたが、本人は自身の日記で「あまりの大根役者ぶりに自分でもびっくりしている」とコメントしている。
番宣で「スタジオパークからこんにちは」に出演した際、永田からIWGPを取った試合が放送され、NHKでは珍しいプロレス映像のオンエアとなった。
フジテレビのOUR HOUSEに出演した際は金髪を黒髪に戻して出演した。
聖闘士星矢の声優を演じたこともあり、この時、高山は自身が乙女座ということもあり「乙女座のシャカ」のTシャツを着てスタジオに現れた。

 

まさかのプラモマニアなのは驚きですが、何よりもプロレス界の著名人にこれでもか、というほどかわいがられていますね。

それほど高山さんの才能を皆さん買っていた、ということでしょうが…

名だたる人に買ってもらいまくりで、正直うらやましいです(´・ω・`)

 

 

 

”プロレス界の帝王”の私生活

交友関係は?

幕内力士の北勝力を「英樹」と呼び、弟分のように可愛がっている。同年代であるノア所属の杉浦貴と大変仲が良く、杉浦を「スギ」「スギ様」「おすぎ」などと呼んでいる。
それぞれライバルに「試合以外での杉浦貴」「夜の高山善廣」を挙げている。

強面で、基本的にはヒールな立ち位置であるが、たとえ自分より年下でも、大森、垣原賢人、鈴木みのるなどの先輩選手には「さん」付けで呼ぶ常識人でもある。
ただし、大森との喧嘩別れ以後は「あんな奴」とか「隆男ちゃん」と言ったこともある。

三沢光晴は「社長(もしくはエロ社長)」、田上明は「田上のおっさん」、武藤敬司は「タコ社長」と呼ぶ。
同年齢でキャリアは上の小橋建太は「小橋建太」、年下だが高山が敬語を使う大森と同期の秋山準は「準」、永田裕志は「裕志」、などと呼び、さん付けをしないが、「~選手」と敬称を付けることが多い。

最近は鈴木に対して「みのるちゃん」と呼んでおり、同年齢の佐々木健介にも40歳になった記念として「健ちゃん」と呼ぶようになった。
健介はその後咄嗟に高山を「高ちゃん」と呼び、鈴木からは、ノア中継放送内や自身のブログなどで「金髪の大男」と呼ばれることが多い。

2004年9月26日に「ウチくる!?」にゲスト出演した。その際に馬場・猪木(猪木はVTR出演)とのエピソード・湘南での思い出を披露し、ライフセイバー時代の友人、宮戸、後輩の桜庭和志らが友情出演した。
2006年12月、「ウチくる!?」に安藤和津がゲスト出演した回にも友人として登場している。

 

プロレス業界内に顔が広いようですが、ライフセイバーとしての顔も廃れてはいないようですね。

筆者の勝手なイメージで恐縮ですが、サメがこようがなんだろうが、高山さんがライフセイバーをしていればすべて力業で解決してくれそうなイメージがありますw

 

 

家族関係は?

2007年1月31日、第1子(男児)が誕生した。

奇しくもこの日は、師であるジャイアント馬場の命日でもある。

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名前は同じ「ヨシヒロ」(善弘)であり、「善まで決めていて、姓名判断で『弘』が良かったため、妻に『同じヨシヒロでいいんじゃない?』と言われて決めた」という。

息子の宿題を見てあげているVTRでは、高学歴とあってきちんと勉強を教えていたが、ややスパルタ気味だった。

 

息子さんに同じ名前を付ける、となれば溺愛度もひとしきり高そうな印象がありますね。

スパルタ気味とのことですが、プロレスラーのスパルタ気味とは…

まぁ、あまり想像したくないものです(笑)

 

 

プロレス界の帝王、完全引退?

高山選手が忘れられない記者の後悔

かつて格闘技を取材していた記者にとって、やり切れない知らせが届いた。
プロレスラー高山善広さんが、5月に試合で痛めた頸椎を完全損傷し、現状で回復の見込みがないことが、DDTプロレスが開いた会見で明らかになった。
意識ははっきりしており、呼吸もできているが、首から下の感覚がないのだという。
あまりにショックだ。

格闘技取材歴は3年ほどだったが、高山さんとは忘れられない思い出がある。
09年6月、後楽園ホールでの大会でのことだった。プロレス界には当時、激震が走っていた。
ノアの三沢光晴さんが、試合中の事故で頸椎を離断し、亡くなったのだ。
プロレス界が誇るカリスマの、あまりに急すぎる死。
それからしばらくは、レスラー仲間の反応を取ることが、記者としての大事な任務になっていた。

その日は、三沢さんの死後、高山さんが東京で行う最初の試合だった。
駆けつけた全メディアの目的は同じだったが、誰も「その件」について聞こうとしない。
尻込みしていたのは明らかだった。
仕方ない。、と意を決して、高山さんに質問した。

「三沢さんが亡くなりましたが…」。

返ってきた答えは…いや、それは「言葉」だけではなかった。

「うるせえな!」

吐き捨てた言葉とともに、強烈な右エルボーが記者の首を直撃した。
196センチの巨体から、怒りとともに繰り出される攻撃に、普通の男が耐えられるわけがない。
手に持っていたICレコーダーとともに、思いきり吹っ飛ばされた。

最悪なことを、最悪なタイミングで聞いた。
命をかけて日々、リングに立っている選手たちにとっては、最もナーバスな問題。
しかも、試合後で興奮状態にあるわけだから、怒るのも当たり前だ。
選手の気持ちを取るか、読者の「知る権利」を取るか、二択に迫られた結果、記者は後者を取った-と言えば聞こえがいいかもしれないが、取材対象の気持ちに配慮できなかった、ただの人でなしと言われても仕方ないだろう。

記者として、最良の選択は何だったのか?
その前に、1人の人間として取るべき行動は何だったのか?
どんな取材現場に行っても、どれだけキャリアを積んでも、この日の高山さんとのやりとりは、トラウマのようによみがえる。

結局、高山さんの気持ちを踏みにじった上に、読者にも情報を届けられなかったわけだから、記者の選択は間違いだったのだろう。

後日、高山さんには丁重におわびした。
「配慮のないことを聞いて、すみませんでした」
試合前、リングサイドでストレッチをしながら、高山さんは声を荒らげることなく、「仕方ねえやつだな。次は気をつけろよ」と静かな口調で許してくれた。

それが何よりの救いだった。

格闘技担当を離れ、今は芸能担当としてまったく違う畑で働いている。
どんな運命の巡り合わせか、8月にはAKB48のプロレスイベントで、6年ぶりに後楽園ホールを訪れた。
こぢんまりとした空間に響く、熱い声援を久々に聞き、高山さんのことを思い出していた。そんな矢先のニュースだった。

高山さんは04年、脳梗塞に倒れながら、2年後にリングに戻ってきた。
まるで不死鳥のようだった。
人間山脈のように大きくて、鉄の塊のように強くて、どんな敵も、病魔にも負けなかった高山さんだ。
今度だって、起き上がれるようになって、立ち上がれるようになって、いつかリングに戻ってきてくれるに違いない。
あの日、あのエルボーを受けたからこそ、そう信じられる。高山さんの病状が少しでも快方に向かうことを、全身全霊で祈りたい。記者ではなく、人として。

 

このように、記者の方にも深い影響を与えるある種カリスマ的人種だったようですね。

スター性故な部分もあるでしょうが、筆者にはそれだけでないように思えます。

 

 

蝶野さんが高山さんの支援に 「応援出来たら」と話す

プロレスラーの蝶野正洋、歌手の岩崎宏美、俳優の高橋英樹、が「第15回グッドエイジャー賞」に選ばれ、14日、都内で行われた授賞式に出席した。

今年3月に「プロレス休業」を宣言し、2014年4月以来となるリング復帰も現時点で封印している蝶野。
アパレル会社「アリストトリスト」の経営とタレント活動のほか、14年に設立した「一般社団法人 NWHスポーツ救命協会」の代表として救命や防災の社会貢献の活動を行っている。

蝶野は救命活動について、「同期の橋本(真也)選手や三沢(光晴)選手など仲間が亡くなったのをきっかけに、AED講習を受けたり。興味があって手伝わせてもらってから、ちょくちょくお手伝いをさせてもらってます。年末にはビンタとかもやってて、救命もやってて…ですけど」と謙遜しながら話した。

囲み取材で、頸髄完全損傷と診断されリハビリ中のプロレスラー・高山善廣について言及。
蝶野は「安全とかを考えると、できない業界ですから。そこはレスラーも覚悟を持ってやってることですけど、そういうことはなるべくなくすというか。やっぱり高山くんのような存在は、各団体から応援という形で呼ばれて、リングに上がることがありますから。自分も経験してきましたし、業界の中でしっかり理解をして、使う側も選手側もやっていくことが大事かなと思います」と神妙な表情を浮かべた。

プロレスラーの鈴木みのるが4日の会見で、高山の支援を涙ながらに訴え、高山を支援する団体「TAKAYAMANIA」の設立を発表した。
蝶野は「鈴木(みのる)くんが手を挙げて、勇気を持ってああいう発言をしてくれて。素晴らしい行動だと思うし、自分もできる限りのことを応援できたら」と話した。

 

こうして数々の方々に支えてもらえるのも、高山さんのカリスマ性故な部分もあるでしょうが…

プロレス界の帝王の完全引退は、それだけ影響が大きいということでしょうね。

 

 

 

はい、というわけで今回は、”プロレス界の帝王”として親しまれてきた、高山善廣選手について迫っていきました!

長い間、プロレス界の第一線で活動されてきた選手ではありますが、選手としてはここで一幕卸すことになりそうですね。

とりあえずは、長い間お疲れ様でした。

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About もるがん斉藤 78 Articles
割と音楽とかが好きです。 よかったら記事見てください! よろしくお願いします!

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